「癒しの森の朝もや⾳楽会」レポート
中村和彦
東京⼤学⼤学院農学⽣命科学研究科・助教
18 世紀の「社交」から 21 世紀の「森交」へ
今回、この企画にお誘いいただいた際には、6時開演という夜公演と見間違えそうな時間設定もさることながら、何よりも、屋根も壁もない森の中での弦楽三重奏という設定に、大きな期待と、そして、いくばくかの疑念のようなものも同時に抱いた。当日は、それらの複雑な感情を胸のうちに秘めながら、早朝の森の奥へとゆっくり歩を進めたわけであるが、そこで鳴り響いていたものは、私のこれまでの音楽観を問い直さずにはいられない音風景だった。当方、仕事柄つねづね“森林は五感で体験すべき”といった言説を振りまいているが、このことを自分自身改めて意識せずにはいられないほど、その弦楽の奏(かなで)は、木々の香りそして夏の朝もやの心地よさと渾然一体となり、ある種の説得力をもって響き渡っていたのである。
その場に集った人は、おそらく100人をゆうに超えていたと思うが、そのうち半数ほどの方は演奏者の近くに席を構え、ひじょうに熱心に音楽を聞いていた。それはまるで、そこがコンサートホールかと錯覚させるような空間となっていたのであるが、そこから少し離れたところに立っていた私は、違和感のようなものを抱いていた。ここはコンサートホールではない。森の中なのだ。森では森の振る舞い方があるはずではないか――そんなことに徒然と考えを巡らせていた私は、ひとつの疑問に行き着いた。音楽とは、そもそも、どのような場所で奏でられるべきものなのだろうか?
私たち日本人にとって、いわゆるクラシック音楽とは、コンサートホールのような静寂な場所で、集中して耳を傾けるものだと認識されている。しかし、そのようないわゆる公開演奏会という形式は、18世紀末から19世紀にかけてのヨーロッパにおける、貴族社会から市民社会への転換のなかで、市民主体の芸術文化活動の一環として成立し、普及してきたものとされる[1]。それ以前の貴族社会においては、音楽は貴族たちの社交の場で主に奏でられていた。それはつまり、音楽が演奏されている場で会話を交わしながら、ときに音楽にも耳を傾けそれを批評するなどして、貴族としての教養を顕示するような場であったという[2]。
ここで改めて目を向けるべきは、今回の演目がJ.S.バッハの作品だったという点である。バッハは18世紀の作曲家であり、それはすなわち貴族社会の時代なのだ。つまり、バッハの音楽は公開演奏会にために作られたものではないのである。このことが、今回の朝もや音楽会で私が抱いた違和感の原因ではないだろうか。やや大胆にいえば、バッハの音楽はそもそも、集中して耳を傾けるようなものではないのだ。ましてや、それがコンサートホールではなく森の中で奏でられているのだから、尚更ではないか!
それでは、今回の“森のゴルトベルク”をどのように位置づけ、意味づけたら良いだろうか。当然ながら、当時の貴族社会をそのままなぞるわけにもいかない。特に、当時のヨーロッパにおいて森とは決して癒しの場などではなく、キリスト教の伝統として嫌悪の対象であり、征服すべき存在であったという[3]。一方で、日本において森は古来、人間社会と調和しながら存在してきた。18世紀の日本は江戸時代、ちょうど8代将軍・吉宗公の時代であるが、当時の人々は農作業のために雑木林を守り育て、持続的な循環型社会を形成していた。その後、近代化に伴いヨーロッパの価値観を取り入れたことが自然破壊に至らしめたという顛末は、周知のことであろう。
こういった時代背景に鑑みると、ひとつのアナロジー的な意味づけが浮かび上がってくる。それは、当時のヨーロッパ貴族社会における社交の場でバッハの音楽が奏でられていたように、現代の日本では森と人とが調和する場でバッハの音楽が奏でられても良いのではないか、という発想である。朝もや音楽会はまさしく、バッハの音楽に耳を傾けながら森との交流を楽しむことのできる場であった。人と人の交流を「社交」と呼ぶのに対して、森と人の交流なので「森交」とでも称されるような新しい音楽の在り方が、今回提示されたのだと考えるに至ったわけである。
以上の論考は、演目がバッハだったからこそ、その必然性が感じられるものである。改めて一流奏者による選曲の妙に感服し、また感謝するばかりである。
(中村和彦/東京大学大学院農学生命科学研究科・助教)
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[1] 藤野一夫(2000)ヨーロッパにおける演奏会制度の成立と日本の現状,近代,85:31-50.
[2] 大塩量平(2018)1780年代ウィーン貴族社会における演奏会需要,教養諸学研究,144:1-24.
[3] オギュスタン・ベルク(1992)風土の日本,筑摩書房,東京,428pp.